松にまつわる豆知識
TRIVIA ABOUT PINE TREES
一松 吉祥模様としての松
松は、蓬莱山(古代中国で神様がいる山)に生える樹と考えられ、万葉集では祝いの歌として「千代松」が登場します。
中国では厳しい寒さの時期をともにする松、竹、梅を合わせて歳寒三友(さいかんさんゆう)と言い、「慎ましく生きる姿」「正しく清らかである様子」に文人の理想像と重ねあわせたそうです。
日本では松竹梅、この順番で植樹された冬の梅光園緑道を散歩してみるとその言葉の意味を体感できます。
【唐松】松葉が花火のような形であらわされているもの。
【笠松】一般的によく用いられる、枝に生い茂る松を 傘の形に見立てたもの。
【松梅】笠松と梅の花を組み合わせたもの。
【松葉】落葉してもなお、松葉が二枚一組で離れない様子から硬い絆を意味する。
【老松】チームがいつまでも繁栄し続けることを祈る意味。
【松皮菱】松の幹がひび割れた様子に似ているから。模様の一つ辻が花染めに多用される。二松 道真公と飛松伝説
福岡市近郊に【老松神社】は20社ほどありますが、その大半が菅原道真公にゆかりがあります。
「梅は飛び桜は枯るる世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
これは、道真公が都から大宰府に左遷されたとき、自らの屋敷に植えられていた梅・桜・松を詠ったものです。
《(恋しく思って呼びかけた)梅の木は飛んで来たけれども、桜の木は歌に詠み忘れたからか、悲しく思い枯れてしまったようだ。それにくらべると松の木はなんともまあつれないことだろうか》
sこの歌を松の木が聞き及んだところ、大宰府に植えられた若松が、一晩にして立派な松(生松、追い松)になったうです。
福岡では飛梅伝説はよく知られていますが、この飛松伝説も同じく道真公にまつわるものです。三松 私たちの生活と松
●松葉風呂
日本人が沐浴を始めたのは奈良時代からだそうです。仏教では汚れを洗うことは穢れを祓うこととされ、奈良の東大寺には遺構があるそうです。江戸時代には庶民に広く知れわたりました。
お正月の門松もまた、お風呂に用いるハーブとして楽しむことができます。村上志緒氏の『日本のハーブ事典』によると冷え、肩こり、神経痛、リュウマチ、疲労などに効果があり、煮出した松葉を用いるそうです。血行が良くなるほかにもこの松葉風呂は精油成分には森の香りを含み、リフレッシュ効果もあるそうです。
●松葉を飲む・食す
私もまた、福岡にお住いで知恵袋をお持ちの80代、佐々木さつきさんに教わり陰干しした松葉のお茶を緑茶と和えて飲んでいます。油を分解して、水溶性ビタミンが含まれますが、実にこれが香り高いのです。
●世界の人々の松の食べかた
松の実は、古代ローマ史にそのレシピが登場します。肉団子に松の実を混ぜたもので、シリア地方では「コフィッタ・マブロウマ」郷土の名物料理としてその伝統を受け継いでいます。
油脂分を多く含む松の実はイタリア発祥のバジルソースにも風味やとろみを加えています。バジルソースは、一般にパスタやパンのディップなど西洋料理に使われます。私の母が手づくりしてくれたことがありましたがそれがあまりにも美味しく、そして白米に合うのです。
海苔の佃煮のようにして食べてもまた風味があり、即席リゾットのようでした。松の実にはヨーロッパでは子孫繁栄、薬菓子とされ、北アフリカに起源がある松の実をふんだんにまぶしたクッキーが知られています。地中海地域のほぼ全てで、松の実は食され、アイスクリームもあるそうです。四松 松の色
千歳緑(ちとせみどり)
日本人に深く愛された色。「仙斎」とも書く。常緑が不老長寿に通じる縁起の良い色彩。モミの木といった常緑樹崇拝の意味を込めて海外では「エバーグリーン」とも言われる色。
松葉(まつば)
季節の移ろいで様々な色彩を目にする日本で不変の象徴とされる色。
松重(まつがさね)
平安時代以降、着物を重ねて着るほかに、料紙や懐紙などでも使用された襲色目(かさねのいろめ)の一つ。紫色は松影の色とされる。
松の雪(まつのゆき)
松葉に雪が降り積もった様子。冬の情景を現わした襲色目。
緑青(ろくしょう)
金属に発生する青みがかった緑色。日本画では孔雀石(マラカイト)を職人が細かく砕いて作った天然の絵具(岩絵具)の色彩のこと。松を現わすときに欠かせない色彩。五松 擬人化された松
男松と女松
木の特徴からすべすべした幹の赤松は雌松、どっしり大きくごつごつした幹の黒松は雄松ともされています。 葛飾北斎の絵「松の洞の高砂の爺と婆」は、かつて結婚式でよく謡われた世阿弥の謡曲「高砂」に由来したものです。大阪湾の対談に植えられている老松の木が、老夫婦の姿で夜中に幹の中で語らう様子が描かれています。この二本の松の木は「相生の松」と呼ばれ、永久の松葉と幸福を願うものであり、婆は邪気を払うほうき、爺は幸福を招く熊手を手にして表現されます。それぞれの松の木は現在も高砂神社・尾上神社でご神木として大切にされています。 六本松近郊の松の伝承では、元寇の役が描かれた絵巻物「蒙古襲来絵詞」に勇猛果敢な武士の背景に一本の松が描かれていますが、鳥飼八幡宮宮司山内圭司氏によると「これは絵巻物の記述にある『塩屋の松』であり、松の木が枯れた際に、現在の鳥飼の埴安神社の社号額に使われている伝承がある」とご教示頂きました。
松と藤
「男は松、女は藤」ということわざがありますが、日本では藤の花を女性、松の木を男性に見立て、松と藤を傍に据え、その姿を夫婦円満の象徴としていました。
色あひよく花房長くさきたる藤の花
松にかかりたる
清少納言は源氏物語「末摘花」で、源氏を思い、恋焦がれて一途に待っていた女性が再会するきっかけにと、《松=待つ》と組み合わせ、待ち人がついに来た場面として松と藤を象徴的に描き、運命的な再開を演出しています。小石(恋し)く待つ(松)という組み合わせは、手紙が一般的ではないときの習慣で、相手を思う気持ちを言葉ではなく伝える方法の一つとされていました。六松 六本松
六本松には平和台球場跡のように平和への祈り、願いにつながる場所や経緯がある。平和は希望の灯、それを絶やさないように。
城下への目印となる六本の大松。この一帯は海に近かったため松が多く、昭和初期の市内電車の停留所にも「天狗松」というのがあったほどです。
また、豊臣秀吉が肥前名護屋へ赴く時通った道が「太閣道」と呼ばれたように、博多と肥前を結ぶ交通の要所でもありました。
昭和6年に、この目印となる六本の大松にちなんで「六本松」と名付けられました。
大正11年には、現在の九州大学教養部の前身、旧制福岡高校の開校と、城南線電車の開通で急速に発展しました「長栄寺の前の通りの形が古地図と比較すると、現在とほぼ変わっていません。おそらく梅野眼科の裏に見えている高台に見える場所辺りが『六本松』の所以になっている、松の木が六本植えられた場所ではないでしょうか。」(草香江公民館主事 松田さん・談)